他力と自力
前のブログで、仏教でいう、他力と自力って少々誤解されそうだから、少し補足。
他力の「他」はもちろん阿弥陀様の力のことね。自然や宇宙の摂理ととらえてもいいかも。
浄土真宗では、在俗の篤信者で、特に知識や学問がなくとも、仏教的な悟りの境地にいたっている市井の人のことを妙好人って言うんですが、たしか、下駄職人の才市さんが、以下の詩を残しています。
たりきにわ、じりきもなし、たりきもなし、
ただいちめんの たりきなり
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
この詩が、全てを説明出来ていると思います。
我々は時に、自分の力だけで生きているような気がしますが、実は、生まれいずる選択や、(自殺を度外視すれば)死ぬ選択すらも出来ません。つまり、実は自然や宇宙の摂理にまかせるしかないのです。
多少、自分の力でなんとかなる場合もありますが、ひょっとするとそれは錯覚で、単に運命付けられているのでは?と思うことさえあります。年齢を重ねると、自分の努力(自力)だけでは、どーにもならない場面にも沢山出くわしますし。
『Talking with Angelsーロンドンの天使達ー』の中にも、
「最終的に人間にゆるされる行為は、祈ることしかないのではと思うことがある。」
と書きましたが、当時、浄土宗の知識のない私が、天使のロケの後に、フッと降りてきた言葉です。「ただいちめんの たりきなり」 です。
祈りの言葉は、浄土宗では、正に南無阿弥陀仏ですね。
南無阿弥陀仏とか「アーメン」とか、「オーマイガー!!」としか言いようがない場面が多くて、困りますが!笑!
他力の「他」はもちろん阿弥陀様の力のことね。自然や宇宙の摂理ととらえてもいいかも。
浄土真宗では、在俗の篤信者で、特に知識や学問がなくとも、仏教的な悟りの境地にいたっている市井の人のことを妙好人って言うんですが、たしか、下駄職人の才市さんが、以下の詩を残しています。
たりきにわ、じりきもなし、たりきもなし、
ただいちめんの たりきなり
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
この詩が、全てを説明出来ていると思います。
我々は時に、自分の力だけで生きているような気がしますが、実は、生まれいずる選択や、(自殺を度外視すれば)死ぬ選択すらも出来ません。つまり、実は自然や宇宙の摂理にまかせるしかないのです。
多少、自分の力でなんとかなる場合もありますが、ひょっとするとそれは錯覚で、単に運命付けられているのでは?と思うことさえあります。年齢を重ねると、自分の努力(自力)だけでは、どーにもならない場面にも沢山出くわしますし。

「最終的に人間にゆるされる行為は、祈ることしかないのではと思うことがある。」
と書きましたが、当時、浄土宗の知識のない私が、天使のロケの後に、フッと降りてきた言葉です。「ただいちめんの たりきなり」 です。
祈りの言葉は、浄土宗では、正に南無阿弥陀仏ですね。
南無阿弥陀仏とか「アーメン」とか、「オーマイガー!!」としか言いようがない場面が多くて、困りますが!笑!
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