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聖書を読みました。キリスト教雑感

聖書_1
 この頃の読書、マンガで手を抜いています。笑。
 でもね、聖書は学生の頃からチャレンジしていたんですよ。
 旧約聖書は、あまりの分厚さと、登場人物が誰が誰だか解らなくなって、モーゼの出エジプトくらいで挫折…。
 新約聖書は、ホテルなんかに置いてある、あのチッコイ字の本でチャレンジ。目が痛くなり、やはりこれも挫折…。

 聖書は西洋美術や文化を知る上で、必ず必要なので勿論、断片的には知ってはいますが、今回、このマンガのおかげでお手軽に、知識の断片が一本繋がりになったので、その点はマンガと言えど、とってもイイ本だと思います! 各本、たった1~2時間で読めるしね。

 旧約聖書を改めて読んで、驚いたことは、神が戦争に加担したり、神の名の元に他民族を征服したり、一番ドギツイなと思ったのは、神みずから、何の罪も無いエジプト人の嬰児を大量殺略しているところです!
 いや~、困った神様ですねぇ… そう言えば思い出しましたが、私が旧約聖書読破出来なかったのも、こうした思想がいやだったからです…。さらに以前にも書きましたが、人を試さないとを解らないような神様はきらいです。試すという行為には必ず「卑しさ」が含まれています。

 神話学者のジョーゼフ・キャンベルさんは、「砂漠で生まれた宗教は敵をつくる。森で生まれた宗教は親和的」というような意味の事を語っていますが、これはキリスト教と仏教をあてはめてみると、的確だと思います。

 つまり、砂漠で生まれた宗教だから、仕方がないと言えば仕方がない神話かもしれませんね。荒れ地の地平線の向こうから、いつ敵が襲ってくるか解らないような地に住んでいると、どうしても、こうした宗教になってくるのでしょう。
 しかも土地自体がそんなに肥沃ではありませんし…モーゼの一行が荒れ地をさまよったように、どうしても侵略とは切っても切れない文明だった背景を思うと、仏教世界からの視点では、「全く異質」の世界観です。
 今回、改めてその根本がよく解りました。

聖書_2

 その点、新約聖書は、人間(神かな?)キリストの心の闘いの旅、みたいな感じで、良かったです。
 ある信念を持った人の生きざまですね。「裏切り」なんかもあって、人間らしいドラマっていうべきでしょうか…?
 特に、キリストの受難のところで、弟子のペテロが3度「キリストなんか知らない」と言ってしまうところなど、よく知られたシーンですが、マンガと言えど、私は泣きそうでした。笑。
 ペテロさん辛かったろーねぇ……。

 新約聖書は、パゾリーニの描く『奇跡の丘』っていう映画も良かった記憶が。
 やさしいキリストではなく、闘うキリスト ストイックなキリストみたいな感じが良かったです。確か、この映画、出演者全員が素人さんだった記憶が…??
 パゾリーニってすごいよね。『ソドムの市』みたいな映画作ったかと思うと、こんな宗教映画を作ったり… イタリア人的ですね。監督自身の死に方もスゴイし…。

 でもニーチェは、キリスト教を「ルサンチマンの宗教だ」といいましたけどね。
 つまり、「弱い人は幸いだ」的発想は、傷をなめあっているっていう視点です。
 ちょっと飛躍しているけど、一時期一世風靡したマリリン・マンソンなんかは、MTVのインタビューで「ニーチェを読め!」って言っているのを聞いて、私は「あー、この人、本気だなー」と感心したことがありました。西洋のロックって本気なヤツがいるから好きです。
 まさにニーチェは思想界の、ロックンロールやヘビーメタル級です。笑。ニーチェの『悲劇の誕生』なんて本は面白いですよ。特に若い人へお勧め。


 また話は変わりますが、ある日車の中で、NHKのインタビューのラジオ番組を聞いている時、ある老いた作家さんが、(移動中だったので、作家さんの名前など詳細解らず)

「たかだか、35才の若いキリストに、老いの苦しみなんて解るはずがない。」

 と言われて、「なるほどなぁ~」と感心してしまいました…。

 人それぞれ、歳相応の考え方ってあると思うんですよ。私ですら生きてきてそれを感じますし、先に、ニーチェの『悲劇の誕生』を若い人に勧めたように。
 老いて、体の自由が効かなくなると、絶対、考え方も変わりますしね…。年老いて初めて解る真理もきっとあるはずです。そういえば年齢についてはこんな事も書いていました
 だからその作家さんは80才まで生きたと言われている、ブッダの教えに傾倒すると言ってましたが。 この年齢と考え方は、とっても面白い視点だと思いましたよ。

 だから、仏教がいい。キリスト教がいい。って書くつもりなんて全然ありませんよ。信仰の自由ですし、おのおのいいところを取ればいいんじゃないかなと… この記事で触れた李登輝さんみたいに。

 以上、まさに雑感になってしまいましたが、マンガでもこれだけ考えたり書けたりできるので、マンガで手を抜いても、それなりに、良いのではないかと… 少なくとも知らないよりはいいですもんね… 笑。 
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釈徹宗 先生の 『不干斎ハビアン』を読んだ


ハビアン
 釈徹宗先生は、浄土真宗のお坊さんであり、大学教授で、今、日本の宗教界が注目する気鋭の宗教学者さんです。
 兵庫大学に勤めてらっしゃる時に、たまたま私は大学の公開講座を受けて、知り合いました。ちょうど『笑とる仏』を創っている時です。
 
 釈先生の授業は、とにかく面白いです! 知識は勿論ですが、授業にハートがあります!ハートが伝わる授業をされる方はなかなかおられません。
 私は釈先生の授業を聞きながら、「この人なら、私の作品を絶対解ってくれる!」と当時、直感したものです。
 授業が終わると、何度か、先生のところへ質問にも行きました。
 解らないことは、解らないと言ってくれ、別の教授を紹介してくれたりと、とても親切な方でした!

 『笑とる仏』が完成した時は、釈先生にも、少し教えを乞うたので、献本してみると、丁寧な手紙が届き、

「感服いたしました!写真も文章もスバラシイです!折りをみて何度も見かえさせていただきます。」 

と、すごいお褒めのお手紙をいただき、とてもうれしかったものです。 直感通りでした。

 『笑とる仏』で引用した言葉の「真意」まで深く理解していらっしゃる、数少ない読者だと私は、思っています。
 (『笑とる仏』は大徳寺の住職、山田宗正さんも、作品を見て一瞬で見抜いたとおり、その道を極めたお坊様からは非常にウケは良い作品となっています。わかる人にはすぐわかるんですよ。)

 
 4月頃だったでしょうか?NHKの『こころの時代』に出演しておられ、そのインタビューも非常に興味深いものでした。
 私が特に「この人すごいなー」と思ったところは、お寺で老人ホームを運営されていることでした。 
 どうしても、宗教者や宗教学者という人は、机上で論を展開しているだけになりがちですが、ちゃんと宗教者として現実社会に対し「実践」されておられるところに、非常に感動した次第です。

 気付けば、釈先生の本は全然読んでいないことに気付いたので、『不干斎ハビアン』を読んでみました。
 室町、江戸時代に禅僧からキリシタンになり、最後にはキリスト教をも捨てた人、不干斎ハビアン、の紹介です。

 読んでみると、ハビアンの宗教論は、基本的に知識が先行してハートが見えてこない箇所が多々あるので、「ハビアンの人と成り」としては私はちょっとキライなタイプの人物なのですが、当時、今ほど全然情報量の無い中で、確かにすごい比較宗教論を展開した人なんだなと思いました。

 アマゾンの書評等では「現代宗教との関わりの説明は要らないのではないか」とか書いてありますが、私はこの現代宗教との関わりの説明があってこその本だと思います!
 こんな書評の人が「ベストレビュアー」とかになっちゃって4つ星入れて1番上になっているところが、アマゾンの罪なところですよね…。以前、鈴木大拙の本を、「時代遅れ」なんて書いているアホな「ベストレビュアー」が居て、「あんたは何様??あんたに、禅や大拙の何がわかるんじゃーボケ!」と言いたくなるくらいの心境になったことを思いだしますヨ。笑。
 まぁ、どこにでも居ますよね、何にも知らないのにエラソウに言いたがるヤカラ。

 現代に照らし合わせての考察がないと、読んでみて、この世に役に立ちませんし、歴史をひも解く意味もありませんから。宗教学者として、そこは語らないとね。変なレビュアーが書くよう、ちょっと筆致は頼りない印象を受けるかもしれないが、それはむしろ作者の学問に対する誠実さの現れで、本書の本質的部分は、ここに書かれています。そしてもっと大事なことは、こうしたテーマはなかなか理論では語れないということです。

 この本でやっぱり注目すべきところは、キリスト教さえ捨てたハビアンの心境でしょう。
 宗教も突き詰めると、宗派なんてあまり関係なくなると、私は思っています。この辺のところは、私の大好きなジョーゼフ・キャンベルの著書を読めばよく解るかもしれません。

 ちょっとだけ驚いたことに、『不干斎ハビアン』で釈先生が、引用、注目している人物が、『笑とる仏』と結構重なっている点がうれしかったですね。
 例えば、鈴木大拙、親鸞、教信、石田梅岩、鈴木正三、白隠、空海、趙州、道元など。
 あと、『ハビアン』に紹介してある、遠藤周作の『沈黙』はキリスト教と対峙した作品として、やはり興味深い本ですね。私は中学生の時に読んで、いまだに忘れることのできない作品です。このブログにも何度か書いた記憶が…。

 キリスト教を捨てたハビアンの心境というのは、実際のところは解りませんが、ジョーゼフ・キャンベルさんの生き方や信条と照らし合わせると、こうした境地でありたいと私の場合は思うのでありました。本書ではその例として宗教学者の岸本英夫さんなどを紹介してあります。

 現代のような時代、宗教は、非常に難しい立場にあると思います。
 そうした時代の中で、ハビアンの生き方が、一つの参考になるというのが釈先生の一つの視点です。
 宗教は人間存在、根本のもので、釈先生が引用しておられる、内田樹さんの

「真に知的であろうとすれば、人間は宗教的にならざるをえない。」

という言葉は当たっていると思います。矛盾するようですが、文面どおり必ずしも知的である必要もありませんけどね。例えば『笑とる仏』でも紹介している真宗の妙好人など。

 最後に釈先生の本書にある、いい言葉を御紹介。釈先生は優しい表情と、優しい会話の中で、いつも気負いせず、ポロッと本質的な事を語られるところが好きです。

 「ただ、仏道を歩む者として語るならば、宗教には「自分というもの」がボキッと折れるプロセスを経過しなければ見えてこない領域があることを付言したい。その部分に関しては、仏教もキリスト教も同様である。これまで編み上げてきた「自分というもの」がくずれおちるからこそ、人格や価値観の再構築が成立するのである。自分の都合や、枠組みや、これまで編み上げてきた自我、それらが大きく転換する体験なしには宗教の醍醐味を味わうことはできないのである。これを禅では「大死一番」と言い、浄土仏教では「前念命終、後念即生」と言い、宗教学では「回心体験」と言う。」

 こうした言葉は、やはり体験者、現役宗教者ならではという感じがいたします。
 史実には残っておらず知る由もありませんが、ハビアンにもきっとこんな瞬間があったのかもしれません。
 「ボキッと折れるプロセス」というところ、私自身にも少し実感があります。
 先の遠藤周作さんの『沈黙』もまさに「ボキッと折れる瞬間」でしょう…。

 私は高校生の頃、ニーチェを愛読していましたが、彼は、人間の位を、「侏儒」や「高人」「超人」などと表現していましたが、釈先生は、間違いなく「高人」「超人」レベルの御仁であられます。
(そう言えば、去年、妙にニーチェがはやりましたよね。あの意訳の仕方はあまり感心しませんけどね。ちなみにニーチェはおもいっきりアンチ・キリストです。みんな宗教と対峙しているんですね。)

「聖なる石」パワーストーンとしての石棺

 読売新聞の書評『よみうり堂』の記事がアップしましたね。
 前回の私の記事で「素朴な彫りこそ聖性にかなうわざ」という表現が気に入っていると書きましたが、あの時御紹介しなかった、もう一つ気に入っている表現は

「聖なる石に仏を刻んだ」

というところです。私の本では、「石棺そのものが信仰の対象になっていた云々」と、まどろっこしく書いていますが、この表現がシンプルで好きです!

黒岩_1
その通りで、石棺は聖なる石、所謂パワーストーンとして当時から信仰の対象となっていたことは、明らかです。
 その証拠を2~3示してみます。
 
 典型的な例は、高砂市の「黒岩十三仏」です。つい、磨崖仏(崖に彫られた仏)の方に目が行ってしまいますが、「黒岩」とは十三仏の前に置いてある、2枚の組み合わせ式石棺の石材や底石のことです。(左の写真。石の両サイドに溝があるでしょ。あそこに、石を組んで石棺を形造るわけ)
 鎌倉時代、この石の上に時光上人が百日禅を組み、海中から仏を手にするという奇跡を起こしたので、「播州善光寺」と呼ばれる時光寺ができました。(詳細は、本に書きました。ちなみにねっと情報よりは詳しいヨ。笑)
 時光上人が、石棺石材を選んだ理由。それはまさに、石棺にパワーがあると認めたからに間違いありません。このたった2枚の石棺石材から端を発して、ものすごく様々な物語が生まれ出ているのです。
黒岩_2
(ちなみに、十三仏の写真はこれね。自然と一体になっている磨崖仏はやっぱりかっこいい。笑)


 もう一つの例は、加古川市の「宮前の石棺仏」です。左の家型石棺の蓋には阿弥陀様を彫っていますが、右の組み合わせ石棺の底石には、何も彫られていません。
 つまり、石棺材だけを祀っているということです。ほとんどモノリスです。笑。

 こうしたパターンはわりと見受けられ、私の知る限り、他に3箇所知っています。(写真集でこんな中途半端な写真、紹介していないよ。この写真は石棺信仰を示す一つの、説明写真ね。)
宮前

 稀に、文献などを調べると、石棺仏を古墳の「廃物利用」なんて汚い言葉で表現する方もいらっしゃるのですが、私は絶対、そんな動機で造ったものではないと思います!
 「廃物利用」の理由に、お寺や神社の手洗い場の水受けに石棺が使われているケースがあると書いてありますが、手洗いだって「聖なる水場」であり、一つの祭器です。それを見て「廃物」と表現するのは、非常に乱暴な気がします。当時の人は石棺を使ってパワーのある水場にしたのです。
(註;極、例外的に姫路城の石垣に石棺が使われている例がありますが、これは単に建設中の石不足によるものでしょう。あるは石棺パワーで城を守ってほしかったのか?笑)

 普通に考えれば解りますが、例えば、高砂の図書館の入り口に置いてある、こんなデッカい石棺をみると、人としてなんとも言えない「畏怖の念」が起こるのが自然です。(石の宝殿といいい、播磨の石の文化、深いでしょ。)
 この「畏怖の念」こそ、いかなる宗教や信仰のはじまりと言っても過言ではありません。

 石棺には、やはり底知れぬパワーがあるんです。「聖なる石」なんですよ。これは。

臨死体験ってこんな感じぃ?

慈眼寺 昨日のように、むさくるしいオサーンの写真をずっと見せられるのは、読者さんも辛かろう…と思うので大急ぎで更新しますね。笑!(自意識過剰な私も辛いので!爆)
 この写真、特に、石棺仏ではないのですが、仏さまの前にちょうど川のように木の根っこが張っていて、まるで三途の川のようなので、思わず撮ってしまいました。
 臨死体験者が非常に高い確率で見る情景は「三途の川」と「お花畑」です。
 三途の川の対岸には、必ずと言っていいほど、親族(仏:ここでは亡くなった意味ね)がいます。
 仏教も極めると、全てのものが、仏になるらしいので、この小さな石仏(30cmくらい)も、親族ととらえていいかもしれませんね。
 仏教やヒンズー教などでは非常によく「化身」とかいいますよね。究極のところでは「私があなたで、あなたが私」です。つまるところ、「石仏や天使も、私やあなたです」。仏教では『華厳経』が伝えるところです。
 この辺が西洋にはない、東洋の教えの深いところです。「キリストやアラーが私である」とは決して言いませんよね。(『笑とる仏』には紹介しましたが、西洋では、中世のドイツでマイスター・エックハルトだけはそのことに気付いていました。あっ、そう言えばグノーシスの人も知っていましたが。もちろん、どちらも異端扱いです。)
 臨死体験的には、この川を渡っちゃうとOUTらしいです。笑。つまり死ぬってことです。今の心境なら、川岸まで来てしまったら、私は迷わず渡りますが!。
 決して命を祖末にするという意味ではなくて、死ということにネガティブイメージを持っていないという意味です。いつかの記事にも書きました。

 『Taliking with Angels-ロンドンの天使達-』にも御紹介しましたが、立花隆さんの『証言・臨死体験』は、非常にいい本だと思います。多数おさめられた証言者の画像がいいんですよ。絵は拙くても、言葉よりもビジュアルの方が、情報量は圧倒的に多いのです。(これは単純にPCのメモリー量だけを比べても解りますよね。)
 究極的には、言葉ではありません。言語を超えたメッセージを画像で表現しようとおもい、いつも写真集を創っています。
 ちなみに、この石仏は三木市の慈眼寺のかわいらしい石仏です。

他力と自力

 前のブログで、仏教でいう、他力と自力って少々誤解されそうだから、少し補足。
 他力の「他」はもちろん阿弥陀様の力のことね。自然や宇宙の摂理ととらえてもいいかも。
 浄土真宗では、在俗の篤信者で、特に知識や学問がなくとも、仏教的な悟りの境地にいたっている市井の人のことを妙好人って言うんですが、たしか、下駄職人の才市さんが、以下の詩を残しています。

たりきにわ、じりきもなし、たりきもなし、
ただいちめんの たりきなり
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

 この詩が、全てを説明出来ていると思います。
 我々は時に、自分の力だけで生きているような気がしますが、実は、生まれいずる選択や、(自殺を度外視すれば)死ぬ選択すらも出来ません。つまり、実は自然や宇宙の摂理にまかせるしかないのです。
 多少、自分の力でなんとかなる場合もありますが、ひょっとするとそれは錯覚で、単に運命付けられているのでは?と思うことさえあります。年齢を重ねると、自分の努力(自力)だけでは、どーにもならない場面にも沢山出くわしますし。

$『Talking with Angels』西洋墓地の天使像 : 岩谷薫-10_5_10『Talking with Angelsーロンドンの天使達ー』の中にも、

「最終的に人間にゆるされる行為は、祈ることしかないのではと思うことがある。」

と書きましたが、当時、浄土宗の知識のない私が、天使のロケの後に、フッと降りてきた言葉です。「ただいちめんの たりきなり」 です。
 祈りの言葉は、浄土宗では、正に南無阿弥陀仏ですね。

 南無阿弥陀仏とか「アーメン」とか、「オーマイガー!!」としか言いようがない場面が多くて、困りますが!笑!


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写真集
笑とる仏
『笑とる仏ー播磨の石棺仏を中心にー』   谷村新司さん推薦!    播磨の珍しい石棺仏を中心に、素朴な笑顔の石仏の写真集。700年近くもやさしく微笑み続けている石仏達を、さまざまな仏教名言と共に紹介する。この深い笑みはきっと心に響くと思います。巻末には地図もありますので、実際、仏様に会いに行くこともできます。勿論、関西限定書ではなく全国に通じる心の本です。 実質、私の4冊目の写真集。(読み:ワロトルホトケ)
Talking with Angels-ロンドンの天使達
「Talking with Angels-ロンドンの天使達-」 
鏡リュウジ氏の推薦文より
『天使、天使、天使!
この世界は、耳をすませれば天使の羽音に満ち満ちていて、うるさいくらい。たとえ一人でいたって、僕たちは孤独になんかなれっこないのです。この写真集はそのことを伝えてくれます。』 
 

Talking with Angels-イタリアの天使達
「Talking with Angels-イタリアの天使達」
   イタリア19世紀のみごとな墓地彫刻の写真集。
ダンテの『神曲』にならい「地獄」「煉獄」「天国」を彫刻を介し視覚で巡ることができる、美しい天使の本。
プロフィール

岩谷薫

Author:岩谷薫
カメラマン
1995 個展『身体感覚』
1998 個展『Angels of Brompton-祈りのすがた』
2005 写真集『Talking with Angelsーロンドンの天使達ー』
2006 写真集『Talking with Angelsーイタリアの天使達ー』
2008年 スピリチュアル雑誌『Sundari 』記事執筆
『yaso ヴィクトリアン』studio parabolica記事執筆
2009 デジタル印刷すらできない悪質出版社に捕まり、三冊目の天使の写真集が出版不能に。入校データまで全て完成している状態ですので、もし第三集の出版を御検討していただける出版社がございましたら、メールフォームからお気軽にメールしてみてください。第三集は最高傑作なのですが…。
2011 写真集『笑とる仏』実質、4作目の写真集。

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